満蒙開拓団送出と中国残留日本人孤児

9月13日付朝日新聞『天声人語』のテーマは「満蒙開拓団」

満蒙開拓農業移民勧誘のポスター

満蒙開拓団農業移民と満蒙開拓青少年義勇軍の送出が中国残留日本人孤児と中国残留婦人を生むこととなった。

 

 

「いつも弱い子どもが犠牲になる」

『天声人語』の一文だ。

 

私は中国残留日本人孤児帰国者の方々とお付き合いいただいている。

彼ら彼女らの多くは「私たちのような境遇におかれる子どもたちは私たちで最後にして欲しい」と、ことあるごとに仰る。

 

しかし現状は、ガザでウクライナで、世界のいろいろなところで、今この時間も戦争で「孤児」は生まれている。

 

『大地の子』の著者山崎豊子は「中国残留孤児」とは言わなかった。「戦争孤児」と言っていた。

山崎豊子氏

小説『大地の子』

「残留」という言葉には私は違和感を持ち続けてきた。

その言葉にはあたかも自ら満州に留まったかのようなニュアンスが見える。

しかし実態は「遺棄」されたのであって、その言葉では本質が覆い隠されているように思っている。

 

しかし「戦争孤児」には、戦災孤児や引揚孤児も含まれていて、その人たちとの境遇の違いを考えるとき、他にいい言葉がなく「中国残留日本人孤児」という言葉を使っている。

 

国策としての満蒙開拓団送出、中国東北部への侵略が「中国残留日本人孤児」や「中国残留婦人」を生んだ。

 

国策は誰かの犧牲を生む。その犧牲は自分あるいは他者かもしれない。

#国策を疑え

#国策に騙されるな

は私の思いだ。

 

【朝日新聞】

◆ (天声人語)一人ひとりの「ともちゃん」

 

2026年9月13日 5時00分 有料記事

9月13日付朝日新聞『天声人語』

 

毛沢東

1976年9月9日

毛沢東死去

彼が死去してから50年。

毛沢東

 

私には彼について二つの印象がある。

 

一つはエドガー・スノーの『中国の赤い星』で描かれた毛沢東像。

エドガー・スノー著『中国の赤い星』

1年に及ぶ過酷な「長征」を終えたばかりの中国紅軍の様子や、兵士たちの生活を克明に描写されている。そして毛沢東の生い立ちや思想、周恩来、賀竜、彭徳懐といった主要指導者の人間像が活写されている、

中国共産党の政策や、日本軍との戦い(抗日民族統一戦線)に向けた方針を解説。

そして何よりも、指導者だけでなく、名もなき農民、少年兵、労働者たちの声をすくい上げ、当時の中国革命のありのままの姿を伝えるもので、そこに描かれた若き人の毛沢東は、まさに私がイメージする「革命家」そのものであった。

 

もう一つは文化大革命で見せたあくなき権力への執着であった。

文化大革命(文革)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続いた、毛沢東主席主導による大規模な政治闘争・社会混乱の運動。彼は紅衛兵を組織し、古い制度や歴史的遺産をも否定して破壊した。

 

紅衛兵

文化大革命

文化大革命

 

私が大学に入ったのは1967年、まさに全共闘による学園闘争が燃え盛った時期だ。

全共闘の中には、文化大革命のスローガンであった「造反有理」を掲げて自己の闘争を正当化した。そして運動にかかわる人たちすべてに「自己否定」を求めた。大学の教授会との「団交」の場において、教授たちに「自己否定」を求めた。

私が所属したクラブ(ワンダーフォーゲル部)の同期中にも「文化大革命」に心酔する者もいた。どのようにして入手したのか、紅衛兵たちのバイブルであった『毛沢東語録』をかざし、コンパでは中国語で「インターナショナル」を高唱もしていた。

毛沢東語録

 

その紅衛兵たちの暴走が伝えられ始めると、日本社会に誤った「共産主義」観を植え付けたように私は思っている。

 

私が「文化大革命」の実相を知ることになるのは、2007年に中国残留日本人孤児の支援活動に携わり出して、彼ら彼女たちから「文化大革命」期の体験を聴いたことだ。

 

中国残留日本人孤児の中には、日本人であることをもって「スパイ」扱いされたり、地方の共産党組織から排除された人がいた。

ある妊娠していた女性はやはりスパイ視され地下牢に閉じ込められ、腹を蹴られるなどの乱暴を受けたという。

またある人は、辺境に「下放」されて、思想改造の名の下に厳しい労働を強制された。

ある人の養父母は「日本人を養子にした」ことをもってスパイ視され、公衆の面前で「自己批判」を求められた。

またある人は地主階級出身だということで、厳しく追求され勤務していた企業で冷遇されたという。

一方、養父母の中には転居を繰り返して、養子が日本人であることを隠し通して守った人もいる。

 

学生時代には一種憧れを持って見ていた「文化大革命」を、冷静に見ることができるようになった。

 

付け加えておくが、文化大革命期に厳しい状況に置かれた残留孤児たちは、自分たちの命を守ってくれた中国に対して感謝してしている。多くの人たちは中国を「母国」、そして日本を「祖国」と考えているように思う。

 

今日(2026.09.9)付朝日新聞「天声人語」を読んで、こんなことを考えた。

2026.9.9付「天声人語」

 

金魚

 

金魚鉢

子どもの頃からいろんな生き物を飼ったことがある。

 

犬、猫、インコ、ニワトリ、文鳥、鳩、ザリガニ、メダカ、カブトムシ、そして金魚も。

子どもの頃(1950年代)は金魚鉢に夜店の金魚すくいでもらった金魚鉢入れて水草を入れて飼った。当時は知識もなく小さな鉢に数匹入れて飼った。一夏過ぎるとほとんどの金魚はいなくなっていた。

 

大人になってからは少し大きめの水槽にエアポンプを設置して金魚を飼った。ペットショップでアロワナやピラニアの餌用に売っている金魚を買ってきて飼った。

水槽も定期的に清掃もした。

結構長く生きた。

金魚用水槽

 

阪神淡路大震災の時、家族の安全や家具の状況、そして家屋の損傷の確認であたふたとしていたが、ふと気づくと水槽にいた金魚が一匹いない。なんと地震による揺れで外に放り出されて床に落ちていた。慌てて水槽に戻すも泳ぎ出すことはなかった。

 

ずいぶん長生きしていた一匹の金魚がある時、斜めになったり腹を上にして泳いでいた。

ペットショップで聞くと「転覆病」と言って、餌のやり過ぎや水温低下による胃腸の働きの低下でガスが溜まるためにそうなると教えてくれた。

当地の冬は平地より気温が低く、真冬には氷点下になる日(近年はほとんどない)も少なくなかった。餌はそれほど多く与えたことはないが減らしてみた。また水槽の上に白熱灯わかざしてみたが、よくはならずしばらくして亡くなった。

 

あんな小さな金魚でもいなくなると寂しく感じるものだ。

 

今はもう何も生き物は飼っていない。

 

今週の朝日新聞beの「サザエさんを探して」を読んでそんなことでを思い出した。

2026.9.6付朝日新聞be

 

手塚治虫『ながい窖』

手塚治虫『ながい窖』

 

"天災は免れられない。だが人災は防がねばならない。いざ排斥の対象とみなされれば、あなたの、私の、命が危うくなるのだから"

9月1日付朝日新聞「天声人語」

 

『ながい窖』の解説でこの「天声人語」にも引用されている林晟一さんは「在日に限らず、差別を恐れる人々の『おびえ』を描いた作品」、「これまでの差別を忘却し、排外主義が高まる現在、記憶にくさびを打つ意味がある」としているが、その通りだと思う。

 

また四方田犬彦氏はこの作品について

"端的にいって失敗作である。"としなから

"この短編は手塚の作品系列にあってきわめて重要である。"と評価する。

そしてこう続ける。

"手塚治虫が生涯をかけて描こうとした主題とは、巷でいわれているようなヒューマニズムでも、科学と正義の調和でもなかった。ましてや人類の永遠の願いである不死長生でもありえなかった。わたしはそれが差別であったと考えている。"

 

この作品は作者手塚治虫自身も失敗作としていたのか、発表もせず全集にも収録しなかった。

 

四方田犬彦さんが言うように、手塚治虫の生涯のテーマが「差別」であったとするならば、私はこの作品では描き切れないものであったと彼は考えたのではないだろか?

この作品はあるいはプロットであって、彼はもっと長大な作品にして「差別」を描く構想を持ったのではないか、と私は想像したがどうであろうか。

ボンネット型特急「こだま」

朝日新聞beに原武史さんのコラム『歴史のダイアグラム』が連載されている。

毎週楽しみに読んでいる。

 

8月3日付beは『憧れのボンネット型特急』だった。

私が中学1年生の夏、1960年の夏休みに同じ社宅に住んでいた人で、東京に転勤していた人が東京見物に招待してくれた。

その時往復に乗車したのが、東海道本線に1958年登場のですボンネット型特急「こだま」だった。東京ー大阪間を6時間50分で結んだ。

当時の私にとっては「超特急」だった。

それまでは特急「つばめ」が最速で、1956年11月に東海道本線が全線電化されると7時間30分だった。

 

初めてボンネット型特急こだまを見た時にはその斬新なスタイルに魅了された。



1964年に東海道新幹線が開通すると、「こだま」の呼称は、新幹線の夢の超特急「こだま」に移り、東海道本線からはボンネット型特急「こだま」はその姿を消した。

 

しかしボンネット型特急はその他の本線では長く走っていた。

 

さてそんなボンネットで特急に乗って行った東京観光。

はとバスに乗ってお決まりの観光地巡りの記憶はあまりない。

 

もっとも印象に残ったのは、ジャズ喫茶銀座ACBに連れて行ってもらったこと。

 

当時小学6年だった田代みどりが舞台で歌っていた。彼女は1960年8月に「スイート・ナッシンズ 」でデビューしたばかりだった。



ポップスのライブステージは初めてだったこともあり、すっかり舞い上がってしまい、それ以降長く彼女のファンだった。

私にとっての最初の「アイドル歌手」だった。

 

それとともに、アメリカのポップミュージックに夢中になるきっかけも彼女だった。

合唱曲『遥かな友に』

合唱曲の名曲『遥かな友に』

私は学生時代、山でよく歌った。

それは山で逝った先輩Mさんを想ってだ。

 

Mさんは私が大学時代に属したクラブ(ワンダーフォーゲル部)の3年先輩。

私が体力を懸念して入部を躊躇していた時に声をかけてくれてた。

彼が私を山の世界に誘ってくれた人だ。

 

私が1回生の夏、彼は穂高岳で帰らぬ人となった。

夏の北アルプスでの合宿が終わり、松本市内の喫茶店で列車の時間待ちしている時、何気なく観ていたTVニュースが彼の遭難を伝えていた。

瞬間、私の心は食べていたかき氷より冷たくなった。以来私はこの今日を先輩を想って歌った。

 

この曲は1951年7月12日、早稲田大学グリークラブの磯部俶が作詞作曲したもの。

今年で曲が生まれて75年になる。

私の中では今でも色褪せぬ心の歌だ。

 

早稲田大学グリークラブ出身のボニージャックス

の歌声が良い。

https://youtu.be/xnjlIVmHK_w

臼井真さんの死を悼む

臼井真さん(神戸新聞より)

私は阪神淡路大震災の物理的被災者でも肉体的被災者でもない。

 

しかし小学生の頃遊んだ須磨の街、高校の通学や友人宅あった六甲道界隈が壊れてしまったのを知った時、

友人の母親が家屋倒壊に続いた火災で亡くなったことを知った時、

新聞に掲載された犠牲者の中に大学の講義を受けた教授と夫人の名前を見つけた時、

小学校、中学校の同級生が関連死していたことを知った時、

悲しみで途方に暮れた。

 

そんな時、臼井真さんが作詞作曲した『しあわせ運べるように』を小学生が歌う声を聴いて心底泣いた。その涙は私の深い悲しみを和らげてくれた。

この歌は被災した子どもたちを励ますために臼井さんが一晩で作詞作曲した曲。

その歌は子どもたちだけでなく大人たちの心をも元気づけてくれた。

それがこの曲が31年経った今も神戸で歌い続けられている所以だ。

 

そしてこの曲は大地震で傷ついた被災地の子どもたちにも歌い継がれている。

 

65歳、若すぎる。

私より若い人の訃報を聞くのは本当に辛い。

 

ご冥福を祈るしかできない。

合掌

 

『しあわせ運べるように』

https://youtu.be/8SKIzHnCRuA

 

【神戸新聞NEXT】

◆ 被災地で歌い継がれる「しあわせ運べるように」を作詞作曲 臼井真さん死去

2026/7/13 18:30

 

https://www.kobe-np.co.jp/news/society/202607/0020584504.shtml