1967年10月8日
第一次羽田闘争で京大生の山崎博昭さんが死亡。
当時私も大学生で、この事件に大きな衝撃を受けたことを憶えている。
この後しばらくして私が通学していた大学も全共闘による闘争が激化していく。
山崎博昭さんが亡くなった時の状況は、この記事に詳しい。
【毎日新聞】
◆ 羽田事件50年
闘争の資料 ベトナムで展示へ
有料記事
2017/7/14 18:05(最終更新 7/14 18:12)
https://mainichi.jp/articles/20170715/k00/00m/040/030000c
私が敬愛し生前には何度かお話を伺い、影響を受けた歌人・深山あきさんが詠っておられる。
◆羽田デモ (京大文学部一年山崎博昭君の死)
〈平和〉は常に打ち砕かれ真昼間羽田に血まみれの遺体
デモ果てし羽田に青年の遺体一つ〈荘厳ミサ〉地底よりおこる
何事もなさざりしを愧ずとわが青年蒼白なり一つの死の前に
いちにんの青年が担う死の意味の重きをおもうわれらきびしく
死にし青年死なせしその母の息子と重なりて泪し居りたり
母親も宗教家も教育者も起たぬ反戦学生は〈暴徒〉と呼ばれ
虫けらのごとく転がる一つの死これより累々と屍積まれん
打つ者も打たるる者も同胞ぞ飛翔し去るは微笑浮かべて
手を振りて飛翔する首相その手もてまた幾百万を屠(ほふ)らんとする
訪米阻止の意志持てど術なし息つめて厨に羽田デモ聴く
暴走すとマスコミも人も滔々たり羽田デモその本質に触れず
◆解剖室(山崎君の解剖)
冷えびえと解剖室に真実より隔離されたる青年の遺体
黒き手に囲まれ遺体暴かるる解剖室に陥穽はあり
脳・内臓・取り去られ再解剖できぬという青年の死歪められ
脳・内臓・液に浸され青年の忿(いか)りと哀しみ蓄えられん
大いなる陰謀のもとにあばかれて死ののちも青年の無念残れり
撲殺と轢死、発表はくい違い真実は黒き手にて蔽わる
十噸の装甲車に轢かれ損なわれぬ遺体の不思議誰も語らず
(深山あき 歌集「風は炎えつつ」より)
深山さんには私と同年生まれのご子息がおられた。
そして山崎博昭さんと同じ大学に在籍しておられたこともあり、山崎さんの死は大きな衝撃であったのだろう。