【橘小学校時代】③
◆お隣の三兄妹弟
①一番上のお兄さん
私が物心ついた頃にはすでに大学生だった。学生運動の活動家で、選挙の時には選挙カーに乗り応援活動をしていると親は言っていた。
「人生ふり返り(6)【高校時代】⑤」で書いたように、私はこのお兄さんの後をたどるように、中学校、高校、大学と進学した。
その意味では私に最も大きな影響を与えた人と言える。
②二番目のお姉さん
私が小学校に入学した頃には、京都市立美術大学の学生だった。学資を稼ぐために自宅で絵画教室を開いておられた。
社宅の子どもたちや橘小学校の同級生も教室に来ていた。画材はクレパスと画用紙だ。
静物画が主だったが、何を書いてもよく楽しい時間だった。
二年生の時に学校でポスターを書いたことがある。なんのポスターだったのか憶えていないが、かなり自由に書いた。
それが神戸市のコンクールに出品され、最優秀賞を受賞した。
そうなると周りからは「絵がうまい」と言われ始めて、本人もそのきになったのか、それ以来自由さが見られなくなったとお姉さんが言っていたそうだ。
お姉さんは私が小学校4年生(その時は西須磨小学校に転校していた)の時に亡くなった。
母から小学校に連絡があり、担任から早退して帰宅するよう言われた。
二年生だった妹の手を引いて、泣きながら帰った。
そしてお別れのため母に連れられて、神戸駅近くのお宅に行った。
死ということの意味もまだよくわからぬ年齢であったが、お姉さんの動かぬ姿を見て号泣したことを憶えている。
それが私にとって初めての近しい人との別れであった。
③三番目のお兄さん
私が小学校に入学の頃に、お兄さんは中学生だった。私も進学した神戸大学教育学部(当時)付属明石中学校に在籍していた。
隣家は共稼ぎ、おじさんは大阪にあった鉄道教習所の教官、おばさんは明石で石鹸などの日用品を露店で販売されていた。
国鉄の安月給では三兄妹弟を進学させるのも当時は大変だったようで、母はおばさんは大変だったと思うとよく言っていた。
そんな状況だから、お兄さんは鍵っ子でよく私を誘って遊んでくれた。
憶えている遊び
・鉛筆キャップのロケット
マッチの火薬を削った粉に、セルロイドの欠片を少し混ぜて金属製の鉛筆キャップに詰めて鉛筆に挿したものを、水平に固定する。
キャップ部分の下に火を起こして発射させるという危険な火遊びだった。
当然親たちからはこっぴどく叱られた。
私が親から叱られて押入に入れらたとき、お兄さんは「浩重、怒られたんか?」と言って隣の押入から慰めてくれた。
当時の住まいは2軒の棟割長屋で隣との壁に押入が設置されていた。
押入がないと杉板1枚の壁なのでお互いの音が筒抜けだった。
・アイスキャンディーつくり
味の素の缶に砂糖水を入れて割箸を入れて、氷の中に入れて置く。氷には塩をかけていた。缶の縁は薄く凍ったがアイスキャンディーにはならなかった。
・オタマジャクシの飼育
社宅の近くの国鉄湊川貨物駅事務所前の庭には小さな池があった。そこにはカエルがいて産卵していた。
それをすくって家に持ってかえり、洗面器に入れて観察、しばらくするとたくさん孵化して小さなカエルが洗面器から飛び出して、土間はカエルだらけになり大騒ぎとなった。
大半は捕まえて池に戻したが、中には下駄で踏みつけたのもいて、かわいそうだと庭に埋めた。
・鯖釣り
社宅は港からも近かった。ある時港に鯖の群れが迷い込んだという情報を得たお兄さんは、「浩重、行くぞ」と言って、竹竿を持って港に駆けつけたが、釣果はなかったように思う。
お兄さんは好奇心の塊で、大学は神戸大学理学部に進んだ。
私は病弱だったこともあってか、お兄さんのやることをただ見ているだけで、自分でやろうとはしなかった。
夏休みにはお兄さんも通っていた付属明石中学校に連れて行ってくれた。校庭に植っていた木に残っていた蝉の抜け殻がたくさんあった。
自宅付近では見たことがないもので驚いた記憶がある。
このようにお隣の三兄妹弟は私の世界を広げてくれた人たちだった。