【高校時代】⑤
以前にも書いたが、隣家のM兄さんの影響だ。
Mさんの進んだ進路をなぞるように、私は神戸大学教育学部(当時)付属明石中学校、神戸高校と進んだ。
Mさんは学生運動の活動家であった。
ある時こんなことがあった。
Mさんと凧揚げをしていて、ずいぶん高く揚がったため風をいっぱいに受けた凧の糸が切れて東の方向に飛んで行ったしまった。
飛んで行った先は、社宅に隣接するようにあったスラムだ。そのスラムは空襲でできた瓦礫が大量に廃棄された丘の様な上に、粗末な建物がひしめきあっていた。もっとも私たちが住む社宅(当時は官舎といっていた)も、杉板一枚の外壁、屋根はスレート張りという今思えば掘立て小屋だったが。
Mさんは「凧を探しに行こう」と私の手を繋いで、ぐいぐいと引っ張ってそのスラムに足を踏み入れた。スラムの住民からの刺すような視線を浴びて身体が強張る私を引っ張ってスラムの中を歩き回った。結局凧は見つからず、Mさんはスラムにあった駄菓子屋さんで奴凧を買ってくれて引き返した。
帰ってからそのスラムの成り立ちを話してくれた。その時はよくは理解できていなかったとは思うが。
またある時は神戸で行われた「文士劇」に連れて行ってもらった。
「文士劇」は神戸在住の文化人と言われる人たちが出演する劇で、Mさんの恩師である神戸大学経営学部教授の古林喜楽教授が出演されていた。
古林喜楽さんは「経営労務論研究のパイオニア」と言われていた人で、企業労務を批判的に研究されていた。
私が高校に入学した後、Mさんは60年安保闘争で亡くなった樺美智子さんが、高校の先輩であることも教えてくれた。
私が高校在学中に、教師は誰も樺美智子には触れなかった。
Mさんを尊敬していた私は、それこそ小さい頃から進学先は漠然とは決めていた。
そしてゼミは古林喜楽先生と決めていた。だけど小林先生は私が大学に入学した時には、既に定年退官されていた。
高校生の時に古林喜楽著「経営労務論」をMさんからいただいた。
個別資本における「労務管理」を批判的に検証して、その本質を明らかにするのがこの著作の論旨だった。
さらに「経営学」を個別資本としての企業活動の本質を明らかにするものと規定し、その方向で「経営学」を確立しようというものだった。
方法論から説かれてあり、高校生の私にはかなり難解であった。
それで当時の成績も考えず志望校は「神戸大学経営学部」だった。