1884年10月31日
「秩父事件」発生。
「秩父事件」10月31日 から11月9日 にかけて、埼玉県 の農民 と士族が 政府 に対して負債 の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。
秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党 、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(文献により、秩父困民党・秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年 8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起に至った。
この事件は単なる暴動ではなく、組織化された武装抵抗だった。
困民党は困民党軍を組織して、政府が派遣した警察隊、憲兵隊と戦った。
その軍隊は、総理、副総理、会計長、参謀長、大隊長などを決め、その役割を定めていた。
また軍律も定めている。
軍律
- 第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
- 第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
- 第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
- 第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
- 第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬
(古林安雄 『秩父事件 自由困民党の戦い』 埼玉新聞社 2014年 p.52)
最終的には東京鎮台兵により11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。
一部の急進派は、さらに農民を駆り出して十石峠 経由で信濃国 に進出したが、その一隊も11月9日 には佐久郡 東馬流現小海町 の馬流駅 付近で、高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は、各地で次々と捕縛された。
事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた7名には、死刑 判決 が下された。
秩父事件の参加者は長く「お上 」に逆らった暴徒・暴動という誹りをうけた。
明治政府にとって、まさに否定すべき存在だった。
「秩父困民党無名戦士の墓」には
″われら秩父困民党
暴徒と呼ばれ
暴動といわれることを
拒否しない″
と記されている.
事件は、映画『草の乱 』(神山征二郎 監督、2004年)や、NHK大河ドラマ『獅子の時代 』(1980年)に描かれている。