絶望と熱情

一つの集団が優位に立つことで、他の集団の人々の人権は抑圧され弾圧される

 

その先に大虐殺があり、 #民族浄化 があり、 #ジェノサイド がある

 

そして歴史を歪めて語り継ぐ歴史修正主義が蔓延る

 

歪められた歴史を、さらに切り取り正義を叫ぶ

 

そんな歴史が繰り返され、人々は絶望に沈む

 

それでも人々は立ち上がるときがある

 

時には暴力をともないながら

 

絶望は激しい熱情を醸成する

 

その中に私は望みを見いだすのだ

 

そしていつの日か歪められた歴史が糾され再修正されるという望みだ

 

 

熱情

 

映画『独裁者』(1940年10月15日アメリカで公開)

1940年10月15日

チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』がアメリカで公開された。

 

この作品はチャップリンがが監督・製作・脚本・主演を務めたもので、チャップリン映画初の完全トーキー作品だった。

 

当時のアメリカはヒトラーが巻き起こした第二次世界大戦とはいまだ無縁であり、平和を享受していたが、そんな中で公開されたこの映画は「アドルフ・ヒトラーオーストリア併合、ポーランド侵攻ユダヤ人虐待」を批判した作品。

 

近隣諸国に対する軍事侵略を進めるヒトラーファシズムに対して非常に大胆に非難と風刺をしつつ、ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコミカルながらも生々しく描いている。

 

圧巻は映画の終盤に、ユダヤ人で理髪師であった男が独裁者ヒンケルと間違われ、大勢の兵士が集う広場で演説を行う場面だ。

マイクの前に立った理髪師は演説を行うが、それは自由と寛容、人種の壁を越えた融和を訴えるものだった。演説を終えた理髪師は兵士たちの拍手喝采の中、ゲットーの住民であったハンナに対して、希望を捨てないようラジオで呼びかける。

その演説は次のYouTubeで視聴できる。

https://youtu.be/xl2e69fEFf4

 

私は劇場でも何度も観た。

自宅でもDVDで観た。

私が希求した社会はこの演説にすべてが凝縮されていると思っている。

 

世界、そして日本の現状を見る時、今こそこの映画は再公開され、多くの人々に観てほしいと思う。

 

不朽の名作だ。

 

『独裁者』のポスター

映画終盤での演説の場面

 

パレスチナ【キビヤの虐殺】1953年10月14日に見る「非対称」

 

1953年10月14日

【キビヤの虐殺】

 

キビヤの虐殺は、3人のイスラエル人 が殺害され たことへの報復 作戦 をきっかけに、1953年 10月14日 にヨルダン川西岸 のキビヤ村 で実行され た虐殺事件 である。

 

第101 部隊 や作戦 に加わった 他のイスラエル軍 の兵士 はキビヤ村 にいたアラブ人 兵士 と銃撃戦 を行った 末、迫撃砲 などよって住民 を攻撃し 、結果的に 42 人の民間人 が殺害され 、15 人が負傷した。

また、 この虐殺 により、この軍事作戦 での要職 にいたダヴィド・ベン=グリオン が政府職 を一時 辞任した 。

 

キビヤの虐殺の責任者は時の国防長官であったアリエル・シャロンだった。

 

イスラエルパレスチナで犯した虐殺を見る時、いつもその「非対称」という言葉が浮かぶ。

 

この事件ではイスラエル人の犠牲者は3人、一方パレスチナ人は42人の民間人が殺害された。

 

2023年10月7日に始まったイスラエルへのガザ侵攻は、ハマスイスラエル南部への奇襲がきっかけとされる。

イスラエル人およそ1200人が殺害され、251人が人質とされ今なお101人が捕らえられたままとなっている。

一方ガザでは41000人を超える人々が犠牲になり、その多くは女性と子どもだととれている。また破壊されたがれきの下敷きとなるなどして行方不明となっている人が10000人をこえているとされる。 イスラエル パレスチナ ガザ地区 戦闘1年 死者は4万1000人超に 戦闘はレバノンにも拡大 | NHK | イスラエル・パレスチナ

 

イスラエルパレスチナ人殺害はガザだけでなく、ヨルダン川西岸地域でもこの1年間で500人を超えるパレスチナ人が殺害されたとされる。

 

ここにも「非対称」が見られる。

亡くなった人を数で比較することの問題は認識しつつも、この違いは放置されるべきではない。

イスラエルの言う「自衛権」をはるかに超えた攻撃で、イスラエルのガザ攻撃は非難されるべきだし、イスラエルは直ちに侵攻を停止、軍を撤退させるべきだ。

 

イスラエルはガザを、パレスチナにどのような世界を築くつもりなのか・・・

 

 

 

 

アリエル・シャロン

 

日本被団協 ノーベル平和賞受賞

核兵器は使えぬ兵器と言われたことがあった。

しかしロシアのプーチンイスラエルのネタニアフの言動を見ると、核兵器使用の脅威が現実味を帯びてくる今、ノールウェー・ノーベル委員会はそんな意図を込めたのだろう。

 

過去核軍縮・不拡散への取り組みを評価した受賞は過去にもあった。

 

1995年には「核兵器廃絶を目指す科学者でつくる"パグウォッシュ会議"」、2009年には「核なき世界」を訴えたオバマ大統領、2017年には核兵器廃絶国際キャンペーンICAN)に授与された。

 

50年前の1974年に佐藤栄作元首相が受賞したが、その時の受賞理由の一つに「非核三原則」を訴えたことだった。

当時の日本人の多くが、この理由に呆れてノーベル平和賞への幻滅を覚えたものだ。

それに比べて今回日本被団協への授賞は、格段に意味があるだろう。

 

私は核兵器使用に対する責任を厳しく問うべきだと考えている。核兵器は人類への犯罪行為、最悪の戦争犯罪だ。

人類史上初めて戦争で核兵器を使用したのはアメリカだが、その犯罪行為は歴史的に糾さなければならない。

 

核廃絶を唱えるだけでは、使用を考える国の指導者を思い止めることはできない

 

日本被団協 ノーベル平和賞受賞

 

1960年10月12日【浅沼稲次郎暗殺事件】

1960年 10月12日

 

浅沼稲次郎暗殺事件】

日比谷公会堂 で行われていた三党(自民党社会党民社党)立会演説会で右翼の17歳の少事件の3週間後の11月2日 夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉 を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残した後にシーツ で首を吊って自死した

 

一水会 元代表の故鈴木邦男 も山口と同じ17歳の時テレビのニュースで事件を知り、そして右翼活動に身を投じるきっかけとなったと語った。

 

この三党立会演説会はテレビで中継されていたこともあって、社会に大きな衝撃を与えた。大人だけではなく、同年代の「政治的少年」にも計り知れない影響を与えた。

 

1991年1月に発表された大江健三郎の小説『セヴンティーン』は、山口二矢をモデルにしていた。

 

私はその時13歳、衝撃を受け精神的に不安定に陥った。

 

社会では「セブンティーン」という言葉が流行語となったと記憶している。

 

1960年5月から6月にかけて60年安保闘争が激しく闘われて、このと年は政治と社会が激しく動いた年であった。

 

浅沼稲次郎を暗殺する山口二矢

山口二矢の獄中自死を伝える新聞

大江健三郎著『政治少年死す(セブンティーン第二部・完)

 

植木枝盛が起草した「大東洋日本国々憲案」

鄭玹汀さんのブログ「ふみの枕」で
◆鄭玹汀「植木枝盛の家族主義改革論・社会的婦人論」 [日本思想史]
を書かれていた。
 
 
私が植木枝盛を強く意識したのは20年くらい前だろうか、自由民権運動を知る中で名前は憶えていたが。
 四万十市中村にある幸徳秋水の墓参に行き、その帰途高知で途中下車して高知市立自由民権記念館を訪れた時だ。
その時植木枝盛についての企画展が開催されていた。
そして彼が1881年明治14年)起草した「大東洋日本国々憲案」を見て驚いた。
なんとその憲法草案に「抵抗権と革命権」の条文があった。
植木枝盛憲法草案に織り込んだ「抵抗権と革命権」】
第六十四條 日本人民は凡そ無法に抵抗する事を得
第七十條 政府國憲に違背するときは日本人民は之に從はざるを得
第七十一條 政府官吏壓制を爲すときは日本人民は之を排斥するを得
第七十二條 政府恣に國憲に背き(手へんに亶)に人民の自由權利を殘害し、建國の旨趣にを妨ぐるときは日本人民は之を覆滅し新政府を建設する事を得
記念館で評伝などを購入、その後家永三郎編『植木枝盛選集』(岩波文庫)、家永三郎著『革命思想の先駆者ー植木枝盛の人と思想』(岩波新書)などでその人となりに触れた。
植木枝盛や木下尚江の言論を知る時、彼らはまさに「今こそ旬」とういう思いを強くする。

家永三郎著『革命思想の先駆者ー植木枝盛の人と思想ー』岩波新書

家永三郎著『革命思想の先駆者ー植木枝盛の人と思想ー』岩波新書

家永三郎編『植木枝盛選集』岩波文庫

10月10日、何があった?

1944年10月10日

十・十空襲(沖縄第一空襲)

 

十・十空襲または沖縄大空襲は、第二次世界大戦(太平洋戦争 )後期の1944年 10月10日 に南西諸島 の広い範囲でアメリカ海軍 機動部隊 が行った大規模な空襲 。所在の日本軍艦船などに甚大な損害を与えるとともに、那覇市 の市街地の大半が焼失するなど民間人にも大きな被害が出た。

 

沖縄大空襲は1945年6月23日に始まった沖縄戦の前ぶれであった。

沖縄大空襲

沖縄大空襲