◆犠牲者を悼む
私宅は神戸市北区にあり、激震地域から約10km離れた六甲山系の北斜面にあったため、激しい縦揺れは経験したものの家族は全員無事だったし、家屋にも目立った損傷はなかった。
一週間後くらい経ってから、JR神戸線の六甲道駅付近を歩いた。
同駅付近やそこから数百メートル北の阪急六甲駅付近は高校、大学時代から馴染みのある街だったし、高校の友人たちも少なからず住んでいた。
JR六甲駅付近は壊滅状態で、かつての面影はなかった。
六甲道駅付近を歩いていたら、たまたま高校の同級生であるY君と遭遇した。
互いの無事喜び合った。
当時彼は東京勤務だったが、実家の状況を確認するために帰神していた。
家族の無事を聞いた時、目を伏せ黙りこくった。
しばらく沈黙があって彼の口から出た言葉を聞いた時の衝撃に、今度は私が言葉を失って私は茫然自失となった。
彼の両親は地震で倒壊した自宅に閉じ込められ、その後に発生した火災により焼死したという。言葉を失って立ち尽くした。
震災による直接の死ではないけれど、震災関連死とされる友M君の死がある。
彼は中学校の同級生、住まいも近く、野球部でも一緒だった。
高校は長田高校、大学は大阪学芸大学(現大阪教育大学)に進み小学校の教師となった。
震災当時彼は神戸市立若宮小学校の副校長であった。
同校は激震地区にあったため避難所となり、多数の住民が教室や体育館に避難していた。
彼は避難所の運営管理者として、避難所の運営や避難民間のトラブルに対処していた。
一度避難所から要望のあった物資を届けに行き、短い時間だったが話を聞いた。
彼はすっかり憔悴し切っていた。そんな様子を気にしながらその場を後にした。
3月の教員異動で彼は神戸市西区の校長として異動になった。
その報を聞いて本当に良かったと思った。
西区は震災による大きな被害もなく、教育現場で力を発揮できるだろうと喜んだ。
しかし4月1日の着任直前に急死したとの知らせがあった。
なんということか…
おそらく避難所運営で心身ともにすり減らしていたのだろう。
転任すると聞いて緊張の糸が切れたのだろうか。
新聞が配達されるようになって、誌面には犠牲者の名前が掲載されるようになり、震災死された方の掲載された。
目を皿のようにして名前を確認した。
大学の教授のご夫妻の名前もあった。
毎年開催される「阪神淡路大震災1.17のつどい」に訪れることができないできた。
それは、家族も無事、住居も無事であった私のような者が、家族、住まい、そして職を失った人たちが犠牲者を悼み、自身の心の傷を見つめる人々と同じ場に立つ資格はないと思っているから。30年経ってもその気持ちは変わらない。
三宮の東遊園地にある「異例と復興のモニュメント」は何度も訪れた。
地下に掲示された震災死者と関連死者のネームプレートを何度も見た。
動けなくなって位から10年近くになるが、その間は訪れることができていない。
NHKETVの「100分de名著」の2025年1月で紹介される書籍は、安克昌著『心の傷を癒すということ』だ。
安さんは震災当時、神戸大学付属病院に精神科医師として勤務していた。
安さんは生き延びた人々がさまざまな傷を負っていることに気づき、その人たちの「災害トラウマ」を見つめていた。
被災者はもちろん、災害現場で強い無力感を感じた消防士たち、そして病院で治療にあたる医師や看護師たちにも、そのトラウマを見ていた。
私はこの書籍を何度も読み返している。
それはひょっとすると、被災した人たち、家族を亡くした人たちに比べようもないけれど、いく人かの知り合いを亡くしたこと、被災地を歩いて見た光景、ボランティア活動で感じた無力感を「癒そう」としているのかも知れない。
同時にそれも心に深い傷を負った人々に対して不遜な行為だとも思ってきた。
それでもこの書籍はこれからも繰り返し読むだろう。
−続く−