1995年1月17日阪神淡路大震災の記憶(1)

淡路大震災が起こってから30年が経過しようとしている。

 

発生後40年となる2035年には、私が存命であれば87歳になっていて、記憶が定かではなくなっているかもしれない。

あるいは私はすでにこの世から姿を消している可能性が高いと思う。

 

この30年という節目にあたり、私の体験したことを文章にしておきたい。

 

◆発生直後

地震発生時刻は午前6時45分。

三連休明けの火曜日だった。前日は「成人の日」で祝日だった。

 

当時私は大阪の谷町4丁目にあった事業所に勤務していたので、午前5時過ぎには起床して午前6時前後に神戸市北区にあった自宅を出るのが常だった。

 

その日もいつもの通り起床し、朝食を摂り、洗面所にいた。

 

突然突き上げるような揺れに襲われた。

続いてガンガンと音を立てながら短い間隔で上下に激しく揺さぶられた。

私は立っていられなくなり、洗面台をつかみながら床に座り込んだ。

揺れはおそらく15秒くらいだったのかもしれないが、正確な時間はわからなかった。

 

揺れが止まり、家族の安全を確認。

1階には両親が就寝中であったが無事、家具などの倒壊はなかった。

私たち、連れ合いと息子も無事だった。

息子な部屋の本箱が傾いたが、机に寄りかかり倒壊はなかった。

私たちの寝室は、本箱は転倒防止器具をつけていたので倒壊はなく、扉が開いて何冊かの書籍が飛び出していた。

テレビ台の上のテレビが連れ合いの布団の上に飛んでいた。

もし連れ合いがまだ就寝中であれば、頭部の上に落ちていただろう。

連れ合いも私と同じ時刻に起きていたため、ことなきを得た。

また箪笥などの家具は倒れることはなかった。

連れ合いがいた台所は食器棚の扉は開いたが食器は飛び出さなかた。

居間の様子は暗くてわからない。

 

自宅は激震地区から約10km離れた六甲山系の山ひとつを超えたところにあった。

もし激震地区にあればそんなことではすまなかったであろう。

 

午前6時を過ぎて空が明るくなり、居間を点検すると小さな水槽で飼っていた金魚が床に落ちていて、こと切れていた。

飼い猫の姿が見えず、名前を呼びながら探したが答えない。外に飛び出しはしてはいないとは思っていたが、家族で探した。

なんと居間に置いてあった電子ピアノの下に潜り込んで、怯えた様子で小さくなっているのを発見。抱き上げたが震えているようだった。

 

電気、ガス、水道は停止、前日の風呂の湯が張ったままにしておいたのでトイレを流すのに使えた。

 

テレビも観ることができず、情報が入ってこない。非常持ち出しバックから、携帯用ラジオを取り出して聴く。

 

朝日放送毎日放送は神戸の状況はまだつかめておらず、地元のラジオ関西が放送局のある須磨の状況をリアルに伝えていた。

しかしそれは通常の放送ではなく、アナウンサーあるいは記者が放送局周辺の状況を悲痛な声で伝えていた。

私は小学校4年生から大学4回生の夏まで、その近くに住んでいたので伝えられる地名はすべて分かった。

時折レポーターは声を詰まらせいて、それを聴いて私も胸が潰れる思いだった。

 

その頃になると交通機関の状況が少しずつ判ってきた。

私は当時神戸電鉄阪神電鉄を利用して通勤したが、すべて普通だった。

 

電話は使えた。

同じ北区だが三田近くに住む職場の同僚と連絡を取り合い、JR宝塚線も不通だというので出勤を見合わせることにした。

 

午前9時頃に職場に電話して上司に状況を説明して仕事を休むと伝えると、なんと「車があるやろ」と言った。後で聞くと、その時に出勤していたのはほんの数人だったそうで出勤可能者は出てくるようにとのことだった。

出勤できるようになった時に、上司は「神戸の状況がテレビでも伝えられずあんな指示を出して申し訳なかった」としきりに謝った。

上司は高槻に住んでいたが、阪急京都線は不通だっは復旧したので、枚方まで出て出勤したという。

 

車で来いと言うので仕方なく、「いつ職場に着くがわかりませんよ」と答えて出かけることにした。その時は神戸と大阪を結ぶ道路の状況の情報はなかった。

 

−続く-

 

阪神淡路大震災後発生した火災